釜山の3分の1が日本内地出身者

釜山の3分の1が日本内地出身者

1925年頃の釜山中心部の地図。現在と比べると区画がほぼ同じであることがわかる 出典 朝鮮総督府「朝鮮の港湾」 [Public domain], via Wikimedia Commons

 日本が貧しかった戦前には、多くの者が仕事を求めて北米に移住した。ロサンゼルスの「リトル・トーキョー」をはじめ、サンフランスシコやバンクーバーなどに“日本人街”があった。

 朝鮮半島にもまた多くの日本人が渡っている。終戦の頃は、半島全域に約70万人が住んでいた。

 中でも下関や博多からの船便が発着する半島への玄関口だった釜山は、特に日本人が多く住む町だった。

 朝鮮総督府統計年報では、1933年に日本内地出身者の人口が5万2031人に達している。

 同年の釜山市域総人口は15万6429人だから、市民の3人に1人は内地出身者ということになる。商売や観光の短期旅行者を含めるとその数はさらに増える。

 「朝鮮人よりも日本人のほうが多かった」

 と、確かなデータはないが、当時の釜山を訪れた旅行者には、このような印象を語る者も多い。

 街中では、誰もが日本語を話し、商店には、日本の生活雑貨があふれていた。街全体が日本、世界最大の日本人街だったと言える。

長崎出島の25倍にもなる日本人居留区

長崎出島の25倍にもなる日本人居留区

かつて龍頭山神社があった龍頭山公園

 江戸開府後、対朝鮮半島外交を一任され交易の独占権を得て対馬藩は、釜山に倭館を設置して、朝鮮政府との交渉や日本から来る人や荷物の管理を行った。

 1678年になると現在の龍頭山を中心とした一帯に、約10万坪を与えられ草梁倭館が新設される。

 役所や交易所などの施設に加えて、敷地内には多くの居留日本人のすみかが軒を連ね、様々な商店や飲食店もあったという。その面積は長崎出島の25倍にもなる。

 戦国期の東南アジア各地に存在していた日本人街と比べても格段に規模が大きい。

 維新後は、明治政府が草梁倭館を接収して日本公館に改変され、その歴史は終焉(しゅうえん)する。が、釜山の日本人人口は増え続け、龍頭山一帯の日本人街は膨張した。

 李氏朝鮮との国交樹立後は、仁川や元山など、他にも朝鮮半島の各地に日本人街は形成されていたが、釜山は群を抜いた存在だったという。

 道路や下水道が整備され、朝鮮人居住区と比べるとインフラは格段に優れていた。

 それに加えて、神社や公園など計画的に緑地が配され、日本式の家屋が建ち並ぶ。他の朝鮮の町とは明らかに異質な眺めがそこにはあった。

今も釜山には日本人街の名残が随所に

 終戦後、日本人は内地に引き上げ、釜山の日本人街も消滅した。はずが、現在の釜山を歩いてみると、その名残がまだかなり残っている。

 日本人街の中心だった龍頭山付近の道路のレイアウトは、戦前の日本人街の頃と同じだ。

 また、釜山は朝鮮戦争の戦火を逃れた場所だけに、戦前から残る民家や商店の建物が多い。

 高台から家々の屋根を見れば、屋根の形状が明らかに朝鮮式とは違った建築の建物がそこかしこに。

 近寄って見てみると、日本から取り寄せたのだろうか。鬼瓦もいくつか発見した。坂道を脇を固めた石垣にも、刻まれた古い日本語を見つけることができた。

 さらに、喫茶店。1970~80年代頃には、日本でもよく見かけた古臭い感じの喫茶店。釜山にはそれが多い。

 一部には韓国独特の売春業に転業した店も多いのだが…、外観や店内の内装、テーブルやイスの形状には、かつての日本でよく見かけた喫茶店の懐かしさを感じさせる。

 注文を取りにきたウェイトレスが、水とおしぼりを持ってくるあたりも、昔ながらの日本の喫茶店にあるサービススタイル。韓国の他の都市ではあまり見かけない。釜山独特のもの。

 これも、かつて町の総人口の3割以上を占めていた日本人が残した置き土産だろうか。


釜山の旧日本居留地。海側には観光地のチャガルチ市場がある

青山 誠(あおやま まこと)
日本や近隣アジアの近代・現代史が得意分野。著書に『浪花千栄子』(角川文庫)、『太平洋戦争の収支決算報告』(彩図社)、『江戸三〇〇藩城下町をゆく』(双葉社新書)、『日韓併合の収支決算報告~〝投資と回収〟から見た「植民地・朝鮮」~』(彩図社)、近著『明治維新の収支決算報告』(彩図社、2022年)。「さんたつ by 散歩の達人」で連載中。

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