「青瓦台に行ったか?」が市民のホットな話題

「青瓦台に行ったか?」が市民のホットな話題

青瓦台本館前の市民(著者6月18日撮影)

 尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領は、青瓦台は「帝王的権力の象徴」だとし、大統領執務室を龍山(ヨンサン)の国防部庁舎に移転した。

 その上で、5月10日の大統領就任式と同時に「青瓦台を国民の懐に返す」として一般開放した。それ以来、1日平均2万5000人以上の市民が青瓦台を訪れ、今「青瓦台に行ったか?」は、ちまたで交わされるホットな話題となっている。

 見学には今も予約が必要だが、65歳以上の国民と外国人は予約なしでも入れる。

 週末、訪れてみると、大統領執務室のあった青瓦台本館に入るために市民の長い列ができていた。

 建物内部に入ってみても広間や会議室があるだけで、儀式用の空間という雰囲気しかない。

 本館から歩いて3分ほどのところに秘書官たちが詰めていた事務棟が3棟あって、文在寅(ムン・ジェイン)大統領は、実際の執務をこの建物の1つで行った。

 これらの事務棟は「為民(イミン=市民のための)館」と呼ばれていたが、文大統領が「與民(ヨミン=市民とともに)館」という名前に変えたという。

 市内中心部で大規模集会を行った市民が青瓦台までデモ行進をしようとすると、青瓦台に通じる道路の途中で警察がバリケードを築き、決して青瓦台には近づけさせなかった。それは文在寅時代も変わらなかったが、與民という名前が、もっともふさわしくないのが青瓦台だったのである。

  • 事務棟・與民館(著者撮影)

文大統領の記者会見は7回のみ。報道陣からも隔絶された空間

文大統領の記者会見は7回のみ。報道陣からも隔絶された空間

記者室の入る春秋館(著者撮影)

 その事務棟からさらに歩いて2分ほどの場所に「春秋館」があり、ここに記者室や記者会見場があった。

 與民館と春秋館の間には、衛兵が立つゲートがあり、記者たちも自由に通り抜けられるわけではなかった。

 つまり、大統領と記者の動線が重なることはなく、日本の首相官邸のように首相や閣僚、来訪者への声かけやぶら下がり取材はまったく不可能だった。

 文在寅氏が在任5年間に行った記者会見はたったの7回。国会での施政方針演説や記念日での演説を除いて肉声を聞く機会はほとんどなかった。

 今、尹錫悦大統領は、毎朝、大統領室に出勤する際に、玄関フロアで待ち構えるテレビカメラの前に自ら近づき、報道陣の質問に気軽に応じている。

 その姿は、政権交代による変化を象徴し、大統領執務室の移転の効果を端的に示している。

まるで隠遁生活? 大統領居住スペース「官邸」

まるで隠遁生活? 大統領居住スペース「官邸」

木造平屋の伝統家屋の官邸(著者撮影)

 大統領の居住スペース「官邸」は、青瓦台本館の裏手の山の中腹にある。

 本館から官邸までは、勾配のきつい、けっこう長い坂を歩くことになる。夜、暗い時にここを歩くのは少し勇気がいるのではないかとも思った。

 というのも、官邸のすぐ裏側は、北岳(プガク)山(標高342メートル)の鬱蒼(うっそう)とした森が迫り、この森は1968年、北朝鮮ゲリラが青瓦台襲撃を図った際の侵入ルートだった。

 官邸の裏山には、鉄のフェンスが何重にも敷かれ、兵士が歩哨に立った監視ポストや監視カメラがあちこちに設置されていた。

 官邸は木造平屋の伝統家屋で、見学者は外から建物を一周し、窓越しに寝室や食堂、化粧室などをのぞき見ることができる。

 官邸の庭は、文在寅氏が愛犬と遊んだり、家庭菜園を作ったりしたところで、そうした姿は写真でも報道されていた。

 そのような暮らしぶりがわかる場所だが、ここで1人で暮らした朴槿恵(パク・クネ)大統領は、2014年のセウォル号沈没事故の時、「空白の7時間」として有名な、誰の目にも留まらず、誰にも行動がわからない時間を過ごしていた。

 官邸の裏山の遊歩道からは、眼下にソウル中心部のビル街を見渡すことができる。

 そんな下界の喧噪(けんそう)から離れて、隠遁生活を送ろうと思えば、できそうな空間でもあった。

  • 官邸裏側のフェンスと監視ポスト(著者撮影)

80年ぶりに市民の財産として戻った

80年ぶりに市民の財産として戻った

青瓦台本館に入るために列を作る市民(著者撮影)

 青瓦台の広大な敷地は、朝鮮王朝末期、景福宮という宮殿の「後苑」として使われた。

 日本統治時代の1929年、景福宮と後苑を会場に朝鮮博覧会が開かれた後は、市民も立ち入れる公園となった。

 1939年に朝鮮総督官舎が建てられ、戦後は米軍政司令官官舎として、1948年からは大統領官舎として1991年まで使われた。

 今の官邸が完成したのは1990年、青瓦台本館は1991年である。その間、軍事政権時代を含め、民主化以降も、ここは一般市民がのぞき見ることもできない閉ざされた世界であり、時には抗議と憎悪の対象となった。

 80年ぶりに市民が自由に立ち入れるようになり、孤独な権力者が独占していた広大な敷地には、いまトレーラー式の臨時トイレが4か所に設置されている。

 それだけ大勢の市民が訪れている証拠であり、彼らが、都会の真ん中の緑あふれる庭園や山麓の遊歩道を自分たちの財産として楽しんでいる姿を見ることができる。

小須田 秀幸(こすだ ひでゆき) 
韓国在住4年目。KBSワールドラジオ日本語放送で日本向けニュースの校閲を担当。日韓の歴史の舞台となった場所を訪れ、韓国の今を紹介するコーナー「ノッポさんの歴史ぶらり旅」をKBS日本語放送のウェブサイトとYouTubeで発表している。

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