倭寇は強調しても仏教排斥は語らない不思議

倭寇は強調しても仏教排斥は語らない不思議

破壊された円覚寺跡(タプコル公園)に残る円覚寺址十層石(著者撮影)

韓国 仏寺99%強を大破壊の歴史 対馬盗品仏像は倭寇が略奪した?の続き。

 長崎県対馬の観音寺から韓国人窃盗団によって盗まれた金銅観音菩薩坐像について、韓国の高裁は2月1日、韓国の浮石寺(プソクサ)に所有権があるとした1審判決を覆し、観音寺に所有権があるとする控訴審判決を出した。

 これを不服として、浮石寺側は最高裁に上告する方針を示している。

 盗難被害に遭ってすでに10年、この問題の決着はさらに先延ばしされることになった。

 ところで、一連の裁判の過程や韓国メディアの報道の中で、「倭寇による略奪」が強調される一方で、前編でお伝えしたように、朝鮮王朝時代に仏教を徹底的に排斥し、寺院のほとんどを破壊し、金属製の仏像や鐘は溶かして兵器に変えたという歴史があったことを、一切語らないのはどうしてか。

仏教排斥の激しさを伝える博物館の仏塔

仏教排斥の激しさを伝える博物館の仏塔

国立慶州博物館にある仏塔(著者撮影)

 そうした歴史は、ソウルの国立中央博物館や国立慶州博物館など各地の博物館の庭園に並べられた仏塔の数々を見ればわかる。中央博物館の庭園だけでその数は30基以上に上る。

 本来なら寺院の境内にあるはずの仏塔が、なぜ大量に博物館の敷地にあるのか。

 その理由は、本来あるべきはずの寺院が消滅し、重くて動かせない仏塔だけが野ざらしで放置され、そのうち文化財としての価値が高いものが博物館の敷地に運び込まれたからだ。

国宝級の仏塔や鐘があった名刹も今は公園

国宝級の仏塔や鐘があった名刹も今は公園

円覚寺址十層石塔の彫刻(著者撮影)

 ソウル市内のタプコル公園(旧称パゴダ公園)は、かつて「興福寺」があった場所で、15世紀前半に世宗大王によって撤去された。

 その後、一時「円覚寺」として再建されたが、15世紀末、第10代国王・燕山君(ヨンサングン)の時代に再び破壊された。

 当時の面影を今に伝えるものとして、日本統治時代に国宝第2号に指定された高さ12メートルの「円覚寺址十層石塔」が残る。

 大理石の表面を彫刻して仏教説話を題材にした装飾を施していて、文化財としての価値は高い。

 今はガラスの建物に覆われているが、それ以前は500年にわたり、それこそ野ざらし状態にあった。

 もう1つ、円覚寺に由来するものに、現在、国立中央博物館の庭園に展示されている国宝の鐘がある。

 元々は円覚寺のために鋳造されたものだが、寺院がなくなったあとは、ソウル中心部・鐘路(チョンノ)にある鐘楼「普信閣」につるされ、城門の開閉を朝4時と夜10時に知らせる役割を持たされることで、かろうじて溶かされずに形を留めることができた。

  • 鐘楼普信閣にあった円覚寺の鐘(著者撮影)

青瓦台の裏山にも廃寺の跡と流転の石仏

青瓦台の裏山にも廃寺の跡と流転の石仏

青瓦台の裏山にある法興寺址(著者撮影)

 以前の大統領府青瓦台は、去年5月の政権交代後、一般に開放され、その青瓦台から漢陽都城の北の門、粛靖門や北岳山に上る登山道も去年、市民に開放された。

 その登山道の途中、青瓦台の裏山にあたる林の中に、新羅時代の創建と伝わる「法興寺」があり、今は崩れた石垣の一部だけが残っている。

 1960年代に再建を試みたことがあるそうだが、1968年に起きた北朝鮮ゲリラによる青瓦台襲撃事件で、青瓦台の北麓一帯が立ち入り禁止となり中断された。

 その時に運び込まれた礎石が転がっているのが見える。いずれにしても、ここも朝鮮時代に破壊された寺院の廃墟の1つだ。

 青瓦台と言えば、もう1つ、官邸のすぐ裏に作られた遊歩道の途中に石仏が置かれたお堂があり、「美男石仏」の名で知られている。

 元々は初代朝鮮総督の寺内正毅の時、慶州の「移車寺(イゴサ)址」から総督官邸に運び込まれたものだ。

 元の場所に戻せという市民の請願運動もあったが、戻しようにも戻すべき寺は今どこにもない。

  • 青瓦台の美男石仏(著者撮影)

600年前は倭寇の取り締まりが強化された時代だった

600年前は倭寇の取り締まりが強化された時代だった

修復・復元されて国立中央博物館で展示される仏塔(著者撮影)

 控訴審判決では、仏像の所有権を主張する浮石寺自体が一度破壊された可能性があり、現在の浮石寺と同一性・連続性は認定できないとしている。

 その浮石寺は、仏像が倭寇によって略奪されたのは今から600年前、15世紀前半だと主張する。

 しかし、日本人が主体だった「前期倭寇」の活動が活発だったのは、14世紀後半の50年間ほどで、日本が南北朝の動乱期(1336~1392年)で海賊の取り締まりに手が回らなかった時期にあたる。

 その後、足利義満が明の永楽帝に使節を派遣し冊封される1402年以降は、海賊行為の取り締まりは強化され、倭寇も下火になった。

 また、明国人が中心だった「後期倭寇」は、16世紀前半から後半にかけて、具体的には海賊の首領・王直が捕まって処刑される1560年までの数十年間と言われる。

 つまり、仏像が略奪されたという15世紀前半は、前期倭寇と後期倭寇の狭間にあたり、室町幕府による取り締まりで、日本人が行う海賊行為はほぼ不可能な時代だった。

 反面、同時代の朝鮮は、太宗(在位1400~18年)や世宗大王(同1418~50年)が国王の時代で、まさに仏教排斥が猖獗(しょうけつ)を極め、寺院や仏像がことごとく破壊された時代でもあった。

 朝鮮時代の仏教排斥と寺院への激しい破壊の痕跡がこれだけ残っているにもかかわらず、倭寇の被害だけを証拠もないのに強調するのは、都合の悪い歴史は隠そうとする韓国の悪い癖かもしれない。

小須田 秀幸(こすだ ひでゆき)
NHK香港支局長として1989~91年、1999~2003年駐在。訳書に許家屯『香港回収工作 上』、『香港回収工作 下』、パーシー・クラドック『中国との格闘―あるイギリス外交官の回想』(いずれも筑摩書房)。2019年から2022年8月までKBSワールドラジオ日本語放送で日本向けニュースの校閲を担当。「ノッポさんの歴史ぶらり旅」をKBS日本語放送のウェブサイトとYouTubeで発表している。

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