3.1独立運動100周年を記念してシンポジウム開催

3.1独立運動100周年を記念してシンポジウム開催

 今年、3.1独立運動から100周年を迎えることを受け、「3.1人民蜂起100周年記念シンポジウム『三・一』100年が問いかけるもの」が東京都北区の北とぴあペガサスホールで開催された(主催 在日本朝鮮留学生同盟東京地方本部、西東京地方本部、埼玉地方本部、神奈川県本部)。

 シンポジウムでは、康成銀朝鮮大学校朝鮮問題研究センター長と康宗憲韓国問題研究所代表が3.1独立運動をテーマにそれぞれ講演を行った。

 以下、両氏の講演内容の一部を紹介する。

康成銀センター長「朝鮮近現代史像を共有するための歴史対話を」

 1910年代の独立運動は「閉塞期」であるとし、3.1独立運動はロシアの10月革命やウィルソンの民族自決主義に影響されたものであるという見方が一部でなされている。だが、この時期の朝鮮国内外における民族運動は途切れることなく継続しており、民衆の抵抗のエネルギーは着実に蓄積していた。

 このころの朝鮮では、日本資本が急速に浸透したことで工場労働者が増え、彼らのストライキも増加傾向にあった。これが1910年代に朝鮮国内の民族運動が労働者、農民などによる民衆運動へと方向転換し、3.1独立運動が展開される背景となった。

 1919年1月に高宗が死去すると、天道教、キリスト教、仏教団体の指導者たちは、3月1日にソウルのパゴダ公園(現 タプコル公園)で「民族代表」名義の独立宣言書を朗読する方針を決定し、独立宣言書は宗教団体、学生たちを通じて各地で大量に配布されていた。

 だが、民族代表らは決行前夜、パゴダ公園に大勢の民衆が集まることを懸念して場所を変更し、3月1日に変更先であるソウル市内の料理店「泰和館」で独立宣言を朗読した後、当局に自首している。

 このことから、彼らの目的は独立の意を内外に静かに伝えることであり、それ以上の行動を起こすことは望んでいなかったのではないかとみている。実際、民族代表の訊問調書を精査すると、「全民族的な示威運動」、「学生との連合」という計画はなく、日本の理性に訴えて自治もしくは独立を目指すという性格であり、また、欧米列強の同情に期待するという性格であった。

 一方、3月1日、当初の発表場所であったパゴダ公園では、学生をはじめとした市民が民族代表らが不在の中で宣言書朗読式を決行し、市街で示威行進を行った。これに民衆が合流し、平壌や元山など北部の都市でも運動が展開されるにいたった。

 3.1独立運動は、第一次世界大戦後初の大規模な反帝国主義運動であり、中国の5.4運動など世界各地の民族運動を鼓舞した。また、3.1独立運動の結果、日本は「文化政治」へと統治方針の転換を迫られている。

 この時の経験は、その後の独立運動の原点となった。金日成主席は、当時8歳で3.1独立運動に参加しているが、「私の世界観は新たな段階へと飛躍した。大人たちに交じり、つま先立って独立万歳を叫んだとき、私の幼年時代はすでに終わったと言えるであろう」と述べている。

 いまだ朝鮮人にとって異論のない朝鮮近現代史像というものは存在していない。

 私は、3.1独立運動の研究における認識の差異を埋めるためには、研究交流を実現することが必要であると考えている。北南、海外同胞が共有する歴史認識を獲得することは、北南の和解、統一のための基礎的な作業である。精神的な理解がおよばなければ統一は実現できない。資料の隔たりを克服して、客観的で新しい研究成果に基づいた歴史認識を獲得、共有することが重要である。

 3.1独立運動100周年に際して、北南、海外の同胞研究者が一堂に会して学術研究大会を開き、朝鮮近現代史像を共有するための歴史対話が本格化することを望んでいる。
 

康宗憲代表「『自主独立』から『自主統一』へ」

 1894年、李氏朝鮮末期の過酷な封建支配に対して、農民、民衆が立ち上がり、東学農民戦争(甲午農民戦争)が起こったが、それがいつの間にか大日本帝国の侵略に対抗する戦争となった。日露戦争を機に朝鮮への支配権を確立した日帝に対し、1907年から11年までは義兵闘争が展開された。日本軍の記録によると約15万人が戦争に参加し、2800回を超える戦闘が繰り広げられたとされる。このような過程を経て、当時の朝鮮人口の10分の1である約200万人が参加した3.1独立運動が起きた。

 3.1独立運動が日本側に鎮圧され、挫折すると、一部の人士(じんし)が上海で臨時政府を建てた。当時、独立運動を展開するうえで主に2つの方法論があった。1つは、外交活動によって国際社会に独立を請願するという「外交独立論」であり、もう1つは、暴力統治を行う日本に対しては外交手段だけで独立を達成することはできず、武装闘争が必要だとする「独立戦争論」である。

 臨時政府の国務総理となった李東輝(イ・ドンフィ)は、米国に依存するやり方はだめであり、武装闘争を本格化するためにもロシアの革命政府の方が頼りになるとして、ロシアに代表団を送っている。その背景には、ウィルソン米大統領が第一次世界大戦後に発表した「民族自決の原則」は、あくまでもドイツなど敗戦国の植民地を処理する際の原則であり、朝鮮には適用されなかったという経緯がある。1920年代に入ると朝鮮人の独立運動は一挙に武装闘争へと傾斜した。いかなる民族であれ、何らの抵抗もせずに侵略者の統治に甘んじることなど、あり得ないのだ。

 3.1独立運動直前にも、朝鮮国内には武力闘争への萌芽が見られた。その1つが、張日煥(チャン・イルファン)が主導し1917年に結成された「朝鮮国民会」である。日帝が朝鮮国民会を秘密結社として摘発、逮捕した際の調査資料には、指導者である張日煥をはじめ、金日成主席の父親である金亨稷(キム・ヒョンジク)の名前も記録されている。金亨稷は、拷問により獄死した張日煥から朝鮮国民会の再建を託され、釈放後は長男として家族を扶養する義務をあえて放棄し、革命家として満州に渡ったが32歳で客死する。

 1919年2月8日、東京留学生600人が結集し、「朝鮮青年独立団」として朝鮮の独立を宣言するが(※1)、これは張日煥を始めとする青年たちの独立への意思を引き継いだものと言えるだろう。
(※1 「2.8宣言」。3.1独立運動決起の伏線になったとされる)

 2018年4月の板門店宣言以来、南北両首脳は繰り返し「民族自主の原則」を確認してきた。ここには、朝鮮民族が日本や米国など周辺列強に運命を翻弄されてきた苦難の歴史に終止符を打ち、南北、海外同胞の力を総結集して、自らの手で平和と統一を勝ち取りたいという強い意思がある。

 だからこそ、3.1独立運動から100年経った今年3月1日、ソウルで「『自主独立』から『自主統一』へ」というスローガンが一致団結した思いで叫ばれていた。

 この「新しい時代を切り開く」という思いを胸に刻み、皆さんと共に歩んでいきたい。
 

八島有佑

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