相次ぐ軍人出身の元大統領の死

相次ぐ軍人出身の元大統領の死

11月23日に死去した全斗煥元大統領 出典 AL CHANG [Public domain], via Wikimedia Commons

 韓国では1か月の間に全斗煥(チョン・ドファン)、盧泰愚(ノ・テウ)という2人の大統領経験者が相次いで亡くなった。

 2人の評価は、各種世論調査を見ると歴代大統領の中で最低である。一方、同じ軍人出身の大統領でも朴正煕(パク・チョンヒ)に対する評価は極めて高い。その理由を探ってみる。

 全斗煥と盧泰愚には共通点が多い。ともに韓国の陸軍士官学校11期卒業。1979年に朴正煕大統領が暗殺された後、2人は協力して粛軍クーデターを起こし権力を掌握。翌80年の光州事件(韓国では5.18民主化運動と呼ぶ)では、民主化運動を弾圧し、多数の市民が犠牲になった。

 大統領退任後、後任の大統領金泳三(キム・ヨンサム)によって粛軍クーデター、光州事件について断罪され、過去の不正蓄財も明らかになって収監された(のちに特赦)。

歴代韓国大統領9人の好感度でワースト1、2位

 盧泰愚死後、全斗煥が亡くなるまでの1か月弱の間に歴代大統領の評価に関する2つの世論調査結果が発表された。10月末に韓国ギャラップ社と11月10日にリアルメーターがそれぞれ行ったものだ。

 ギャラップ社の調査は、朴正煕から盧武鉉(ノ・ムヒョン)まで6人の評価に関するもの。このうち肯定的な評価が最も少ないのは全斗煥の16%、2番目に少ないのが盧泰愚の21%で、今の韓国民は2人に対して厳しい見方をしていることがわかる。

 一方、リアルメーターは李承晩(イ・スンマン)から文在寅(ムン・ジェイン)まで9人について好感度と業績評価を問うたもの。

 数字は全体を100%とした構成比。好感度は全斗煥が1.1%、盧泰愚が0.4%で最も低い業績評価のほうは全斗煥が3.0%で9人中5位、盧泰愚が0.5%で最下位だった。光州事件で市民に多くの犠牲者を出したこと、巨額の不正蓄財をしていたことに対する国民の反感が数字に表れている。

業績評価ダントツ1位など評価が極めて高い朴正煕

業績評価ダントツ1位など評価が極めて高い朴正煕

朴正煕元大統領(左から3番目) 出典 Frank Wolfe [Public domain], via Wikimedia Commons

 2つの調査で目を引くのは、同じ軍人出身の朴正煕に対する評価が極めて高いことだ。ギャラップ社では、肯定的な評価が61%で1位の金大中(キム・デジュン)62%に次ぎ2位

 リアルメーターの好感度は、朴正煕が32.2%で1位、2位盧武鉉(ノ・ムヒョン)24.0%。業績評価では、朴正煕が47.9%で2位の金大中15.4%を大きく引き離している。この理由は何だろうか。

民主化運動の弾圧と「漢江の奇跡」

 朴正煕もまた民主化運動弾圧では、全斗煥や盧泰愚と変わらない。特に晩年、非常戒厳令を敷いた後、暗殺されるまでの約8年間は独裁者そのものであり、学生たちの学園民主化闘争を弾圧し、野党指導者の金大中を日本で拉致するなどの事件を起こした。

 一方で、朴正煕は「開発独裁」の名のもとに強権的な経済開発を進め、国民の反対を押し切って日韓基本条約を締結、巨額の請求権資金を元手に「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を成し遂げた。

 朝鮮戦争で廃墟になり、一時はアジアの最貧国にまで落ちた韓国は、朴正煕政権下で北朝鮮を追い越しただけでなく、韓国をアジアの中進国の地位にまで押し上げた。

 ギャラップ調査の年代別分析では、50代以上で朴正煕に対する評価が特に高く、60代以上では肯定的評価が82%と圧倒的である。

 筆者は2000年代のソウルで、よくタクシーの運転手から歴代大統領についての評価を聞かされた。年配の運転手が口をそろえて言うのは、「パクトン(朴大統領)が、満足に食べられなかった国民をなんとか食べていけるようにしてくれた」ということであった。

 また、当時40歳ぐらいの江原道(韓国北東の貧しい地域)出身の女性は、「朴正煕の時代に私の村に電気が来た」という話をしてくれた。彼女にとって、朴正煕が文字通り世界を明るくしてくれたのである。

60年代韓国の貧困と「努力すれば報われる」の精神

 朴正煕時代の韓国の貧困を知るには、『ユンボギの日記』(太平出版社・1965年)を読むと良い。

 この日記は当時、大邱の国民学校4年生だった男の子、李潤福(イ・ユンボク)が日々の生活を克明に記録したものである。この日記は日本でも翻訳出版されロングセラーとなったのでご記憶の方もいるだろう。

 ユンボギ(李潤福の呼び名)の父は、体が不自由で失業中、母は子どもを置いて出て行ってしまい、長男のユンボギが3人の弟妹の面倒を見ながらその日暮らしをする様子がありありと描かれている。

 ユンボギは、学校にお弁当を持っていくことができないため、昼食を抜き、夜、町でガムを売ってそのお金でうどん玉を買い、兄弟で分かち合う。ガムが売れない時は、空き缶を持って家々を回り残飯を分けてもらう。もらえなければ空腹を我慢する。

 これが朴正煕の出身地でもある大邱でさえよく見かけられた当時の韓国の貧困の実態なのである。

 ユンボギの日記は、1964年に出版されると、たちまちベストセラーとなり、ユンボギ少年は、様々な機関から表彰された。さらには、青瓦台で時の大統領、朴正煕とも面会している。

 その時、朴正煕は「私も幼い頃はひどく苦労したもんだ。もっとしっかり勉強して、強く立派な人になりなさい」と激励したという(『ユンボギが逝って―青年ユンボギと遺稿集―』)。「ハミョンテンダ(努力すれば報われる)」の精神である。

「民主化弾圧」よりも「飢餓からの脱出」

「民主化弾圧」よりも「飢餓からの脱出」

ソウル光化門広場の李舜臣像の裏には朴正煕による献納、題字と日本語で刻まれたプレートが埋め込まれている

 一方、朴正煕時代に弾圧を受けた民主化運動の担い手は、主に大学生であった。

 現在、韓国の大学進学率は日本より高いが、1970年当時は大学の数も少なく、学生数は20万人程度だった。朴政権時代の大学生は少数の知的エリートであり、全人口に占める割合は極めて少なかった。

 現代韓国において、朴正煕時代を直接知る世代の大多数は、あの時代を「民主化弾圧」としてよりも「飢餓からの脱出」として記憶している

 世論調査の結果には、あの時代を庶民として過ごした多数派市民の偽らざる実感が表れているのである。

 また、全斗煥以降の大統領たちは、往々にして本人または、親族による不正蓄財などが見られた。そうした面で朴正煕は清廉潔白であり、それも現在までの高評価につながっているのだろう。

犬鍋 浩(いぬなべ ひろし)
1961年東京生まれ。1996年~2007年、韓国ソウルに居住。帰国後も市井のコリアンウォッチャーとして自身のブログで発信を続けている。
犬鍋のヨロマル漫談

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