朴正煕の華僑弾圧政策

朴正煕の華僑弾圧政策

観光地として再建された仁川チャイナタウン 出典 仁川チャイナタウン公式サイト

韓国「まずい」と中華が口に合わず再び給食センター設置の歴史的背景の続き。

 韓国に定住した華僑たちに悲劇が襲うのは、1960年代以降である。

 1961年に軍事クーデターで政権を掌握した朴正煕(パク・チョンヒ)大統領は、華僑を極度に警戒し、弾圧政策をとるようになる。

 仁川の華僑の故郷は中国山東省だが、政治的には反共であり、中華民国(台湾)を支持していた。その意味で朴正煕との相性は良い。

 朴正煕が警戒したのは、その経済力である。

 当時、東南アジアの多くの国は、少数の華僑によって実質的に経済を支配されていた。朴正煕は韓国がその二の舞になることを恐れたのである。

 朴正煕は1961年、まず「外国人土地所有禁止法」を制定し、華僑を含む外国人の不動産所有を規制した。

 63年には、事実上華僑を狙い撃ちにして「貨幣改革」(通貨の切り替え)を実施。

 華僑は、韓国の金融機関を信用せず、現金を手元に置く者が多かったが、貨幣改革によって「タンス預金」が一朝にして無に帰した。

 1971年の「外国人土地取得および管理に関する法律」では、華僑が所有できる不動産を家1軒(200坪以下)、店舗1軒(50坪以下)に制限した。

 仁川には、共和春(コンファチュン)という大きな中華料理屋があり、チャジャンミョンの元祖とされていたが、この法令により廃業を余儀なくされた。

 また、農地の所有は全面的に禁止されたため、華僑の主要な生業の1つだった農業は続けられなくなった。

弾圧に耐えかねて在韓華僑の韓国脱出

 以前より、貿易商や不動産業は禁止されており、さらに農業もできなくなったため、華僑は、中華料理屋、雑貨店、漢方薬店など零細な自営業しかできなくなってしまったのである。

 中華料理屋には、別の規制が追い討ちをかけた。

 1973年には、食糧難と米国からの援助物資である小麦粉の消費奨励を口実に3か月間にわたって中華料理屋での米飯の販売が禁止された。

 店は、チャジャンミョンやチャンポンなどの麺類を売るほかなくなった。さらにチャジャンミョンの価格は統制され、自由に値上げすることもできなかった。

 これらの弾圧に耐えかねて、華僑は次々に韓国を脱出し、台湾、米国、日本などに移住した。

 一時は10万人を越えた華僑の人口は、1990年頃には2万人以下になり、仁川のチャイナタウンは消滅した。残った華僑の70%は零細な中華料理屋を営んでいたという。

歴史の彼方に消える韓国人も知らない華僑弾圧の歴史

歴史の彼方に消える韓国人も知らない華僑弾圧の歴史

日本のちゃんぽんとは異なる韓国のチャンポン 出典 후니훈의 모험 [Public domain], via Wikimedia Commons

歴史の彼方に消える韓国人も知らない華僑弾圧の歴史

 チャジャンミョンは、もともと中国山東地方の家庭料理だったが、味を韓国人の好みに合わせたこと、価格が安く抑えられたことから韓国内で爆発的に広がり、韓国の国民的メニューになった。

 一方で、韓国人が本格的な中華料理に接する機会が奪われてしまったのである。

 北京冬季五輪で提供される食事が韓国選手団の口に合わなかったのは、国内の中華料理がチャジャンミョン、チャンポンのような「韓国式中華」一色となり、本場の中華料理に触れる機会を奪われたことが影響しているのだろう。

 1990年代に入り、韓国は中国(中華人民共和国)と国交を樹立すると同時に台湾と断交した。

 その後、中国は目覚ましい経済発展を遂げた。韓国も中国資本を誘致する政策に切り替え、かつての規制を撤廃・緩和した。

 今世紀に入り、仁川にチャイナタウンが再建されたのも、その流れに沿うものである。

 仁川の「新名所チャイナタウン」を訪れる韓国人のほとんどは、チャジャンミョンの裏に隠された在韓華僑の悲しい歴史を知らない。

犬鍋 浩(いぬなべ ひろし)
1961年東京生まれ。1996年~2007年、韓国ソウルに居住。帰国後も市井のコリアンウォッチャーとして自身のブログで発信を続けている。
犬鍋のヨロマル漫談

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