外国公館に逃げ込む癖があった国王

外国公館に逃げ込む癖があった国王

大韓帝国となった1900年新暦1月1日撮影とされる高宗 出典 Maurice Courant [Public domain], via Wikimedia Commons

外国公館に逃げ込む癖があった国王

日本が壊した朝鮮時代の建物復元進む 今さら王朝の威厳復活だって?の続き。

 今、韓国では、「朝鮮王朝第26代国王で大韓帝国初代皇帝の高宗(コジョン)は、朝鮮を近代化させるために取り組んだ先駆者であり立役者」として扱われている。

 そこまでして高宗を持ち上げるのは、日本によって併合され、日本の植民地になったことで韓国の近代化は達成できたという「植民地近代化」論を否定し、日本の力を借りなくても自力で近代化することはできたということを主張したいためでもある。

 高宗と言えば、1896年2月から1年あまりにわたってロシア公使館に逃げ込み滞在した、いわゆる「露館播遷」で有名だ。

 しかも、それだけでなく、フランスや米国公使館などへの避難や亡命を前後7回にわたって画策し、「七館播遷」と呼ばれるほど外国の庇護を求めて右往左往した人物だった(パク・チョンイン著『売国奴高宗』)。そのために徳寿宮とロシア公使館の間を秘密の地下道でつなげ、いつでも逃亡できる準備を整えていたとさえ言われる。

歴史を材料に日本に揺さぶりをかけるも…

歴史を材料に日本に揺さぶりをかけるも…

宗廟での例大祭の風景(2019年5月5日著者撮影)

 平気で国民を裏切り、国を外国に売るような国王高宗が、国の近代化のためにいかなる貢献をし、国のためにいかなる業績を残したというのだろうか。

 日本統治時代に破壊された朝鮮時代の建物を復元することによって、まさに彼らが言う“日帝強占期”の日本による横暴を暴き出したいと思っているのだろう。

 しかし、相も変わらず歴史を材料にして日本に揺さぶりをかけようとするその先から、すぐさま襤褸(ぼろ)を出している自分たちの姿には気づかないのだろうか。

270年間も荒地だった宮殿の何を再現したいのか

270年間も荒地だった宮殿の何を再現したいのか

塗装前で木材がむき出しの景福宮の建設中の建物(著者撮影)

 朝鮮時代の宮殿の復元と言えば、国王の正殿である景福宮の再建事業は1990年から行われ、今は2011年から始まった第2次再建事業の最中だという。

 中に入ってみると、建築途中で白木の木材がむき出しとなった木造建築を見ることができる。

 ソウル市内には、全部で5つの宮殿があるが、そこを訪れると案内板やパンフレットの解説文には、決まって「壬辰倭乱」、つまり、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文録・慶長の役)で焼失したと書かれている。

 しかし、「朝鮮王朝実録」などによれば、民衆によって略奪・放火されたと明記されていて、李氏朝鮮の統治に不満を持つ当時の民衆が戦乱に乗じて焼き討ちしたというのが真相のようだ。

 その景福宮だが、壬辰倭乱の際に焼失した後、1865年、第26代国王高宗の時代に再建されるまでの270年間、荒れ地のまま放置されていた。

 再建後も大火で焼失するなど、国王高宗がここで暮らしたのはわずか10年にも満たない。それをあたかも広大な建物群が最初から最後まであり、華やかな宮廷生活が、ここで繰り広げられたかのように見せるのは、歴史を歪曲していることにはならないか。

学校を撤去してまで宮殿を復元させる意味とは?

学校を撤去してまで宮殿を復元させる意味とは?

水原華城(著者撮影)

 日本統治時代になって朝鮮時代の宮殿の古い建物は、その多くが取り壊された。

 その跡地は、たとえば、慶煕宮は京城中学校となり、第2次大戦後はソウル高校として使われた。

 徳寿宮北側にあった祖先の遺影を祀(まつ)る施設・璿源殿(ソンウォンジョン)の跡地には、京城第1女学校が作られた。

 しかし、今これらの学校の建物はすべて撤去され、慶煕宮は元の宮殿の建物が復元されたほか、璿源殿も再建のための準備工事が進んでいる。

 さらにソウルの南、水原(スウォン)市の中心部には、世界遺産になっている城壁・水原華城があり、その内部には、国王が行幸や戦乱の際の避難先として使う行宮(あんぐう)があった。

 行宮自体は1900年に焼失しているが、日本統治時代にその跡地に総合病院や小学校の建物が作られた。

 しかし、今、それらの建物はすべて撤去され、行宮が再建された。行宮といってもソウル市内の宮殿と形は同じで、宮廷ドラマのセットのような代り映えのしない作りとなっている。

都市の1等地を市民から奪い王朝に戻す愚

都市の1等地を市民から奪い王朝に戻す愚

璿源殿の再建現場。旧京城第一女学校(著者撮影)

 それにしても、日本統治時代にこれらの学校などがあった場所は、どこも市内中心部の1等地で、生徒や市民にとってもアクセスの良い便利な場所だった。

 日本でも各地に残る城跡に地元の名門高校の校舎が建つというのは、見慣れた景色だが、その校舎を撤去して、元の城に戻したという話は聞いたことがない。

 学校や病院など市民生活に必要なインフラを排除して、観光以外には何の役にも立たない朝鮮時代の王宮の建物に戻すというのは、いかにも合理性に欠けるが、それもこれも日本統治時代への恨みの深さ故(ゆえ)なのだろうか。

小須田 秀幸(こすだ ひでゆき)
NHK香港支局長として1989~91年、1999~2003年駐在。訳書に許家屯『香港回収工作 上』、『香港回収工作 下』、パーシー・クラドック『中国との格闘―あるイギリス外交官の回想』(いずれも筑摩書房)。2019年から現在までKBSワールドラジオ日本語放送で日本向けニュースの校閲を担当。「ノッポさんの歴史ぶらり旅」をKBS日本語放送のウェブサイトとYouTubeで発表している。

記事に関連のあるキーワード

おすすめの記事

こんな記事も読まれています

コメント・感想

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA