わずか1週間が一家の運命の分かれ道に

わずか1週間が一家の運命の分かれ道に

東京駅を模したと言われるが東京駅より4年早く竣工している旧奉天駅

ある中国朝鮮族一家の運命の分かれ道(1/2) 満州国消滅と祖国内戦の続き。

 ところが、ここで運命の分かれ道が起こる。

 米の収穫が終わり北朝鮮へ持参する財産として所有していた資産を処分して換金していたときに中朝国境が封鎖され朝鮮人たちは、北朝鮮へ移動できなくなってしまった。

 家族からはあと1週間早く出発していれば帰還できたのに…という残念がる声もあったが、また、国境が開放されたら帰還しようとなった。

 しかし、国共内戦に勝利して朝鮮戦争勃発の半年ほど前の1949年10月1日に建国された中華人民共和国では、大量の労働力が必要となり、朝鮮人の帰還を認めなくなった。社会主義での新しい国家建設のためにと資産を持っていた朝鮮人は中国政府に没収もされた。

大躍進政策後10数年ぶりに戻ってきた姿に驚愕

 中国の朝鮮人の若者が朝鮮戦争で真っ先に最前線へ送られて戦ったりを経て、1953年に朝鮮戦争は休戦を迎えた。朝鮮戦争後も北朝鮮へ移動は制限されたまま10年ほどが経過した。1960年代に、沈さんの祖父の弟(大叔父)とその息子(従兄弟違)が10数年ぶりに瀋陽へ戻ってきた。

 その姿をみて沈さんの父親らは驚愕したという。血色悪く痩せこけて別人のようだったからだ。

 当時の瀋陽は、大躍進政策で崩壊しかかった農村がようやく立ち直ろうとしていたときだったので、奉天時代よりも貧しかったという。

 それでも北朝鮮から戻ってきたボロボロの親族を見て、沈さんの父親はあのとき北朝鮮へ帰還しなくてよかったと思ったそうだ。

北朝鮮人として戻るも北朝鮮での生活は語らない

 時代は流れて、文化大革命も終わった1970年代後半、沈さんの従兄弟違が再び瀋陽へ戻ってきた。聞くと、大叔父はすでに亡くなったとのことだった。従兄弟違は、以降、北朝鮮へ戻らず、瀋陽で暮らしたという。

 文革が終わったころには、朝鮮人たちは中国の少数民族朝鮮族して、中国籍を取得していた。しかし、戻ってきた従兄弟違は、亡くなるまで北朝鮮国籍のままだったという。中国籍が認められなかったのか、本人らが拒んだのかは今でも定かではない。

 従兄弟違は北朝鮮での生活を語りたがらなかったこともあり、北朝鮮でどのような扱いを受け、どんな生活をしていたかは聞いていないそうだ。

 しかしながら、沈さんも子どもながら、従兄弟違たちが、とてつもない悪環境に置かれていたことは感じていたという。

80年代までは北朝鮮より貧しかった中国

80年代までは北朝鮮より貧しかった中国

稲刈りが沈さん一家の運命を分けた

80年代までは北朝鮮より貧しかった中国

 1970、80年代は、中朝国境警備は現在ほど厳しくなく朝鮮族も北朝鮮人も比較的に自由に両国を往来していた。特に80年代ごろまでは、中国は、大躍進政策と文化大革命で経済が崩壊した中国東北地方よりも北朝鮮のほうが豊かだったという。訪問する北朝鮮人が日本製のスニーカーや炊飯器などを持ち込んできた時代だった。

 沈さんの北朝鮮人として生まれ育った従兄弟たちは平壌や恵山などに住んでいて今でもたまに連絡を取り合っている。

 「お米が1週間早く収穫できて祖父たちが(北)朝鮮へ帰還していたら私は生まれていなかったかもしれませんね」(沈さん)

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