10年の歳月をかけて金壽卿の激動の生涯を描く

10年の歳月をかけて金壽卿の激動の生涯を描く

平壌冷麺はピョンヤンレンミョンとなる

 冷麺は代表的な韓国料理だが、韓国と北朝鮮で表記も発音も異なる。韓国ではネンミョン、北朝鮮ではレンミョンと言う

 このような違いが生まれたのは、朝鮮半島が分断された後、北朝鮮で行われた朝鮮語改革によるものだ。その改革を主導した言語学者、金壽卿(キム・スギョン)の激動の生涯を描いた評伝が、今年7月に刊行された。『北に渡った言語学者 金壽卿1918-2000』(人文書院刊)がそれである。

 著者は、同志社大学社会学部の板垣竜太教授。板垣教授は、10年の歳月をかけてこの評伝を書き上げた。

韓国と北朝鮮の言葉の違い

 日本が朝鮮半島を統治していた時代、朝鮮半島では方言の差はあれ、同一の言語が使われていた。解放後、北緯38度線を境に国家が分断されると、南北で言語差が生まれた。

 朝鮮戦争後は、分断が固定化され、人々の交流がなくなったため、言語差はさらに広がっている。

 韓国のテレビで、時々北朝鮮中央テレビのニュース映像が流される。それを見た韓国人たちは、北のアナウンサーの大仰なイントネーションを面白がる。その口ぶりをまねするコメディアンがいるほどだ。また、語彙や発音にも北朝鮮独特の特徴がある。

 たとえば、金日成(キム・イルソン)主席や金正日(キム・ジョンイル)総書記など歴代の最高指導者は、偉大な領導者、首領などと呼ばれるが、これは北朝鮮特有の表現だ。

 身近な言葉では、友達のことを韓国語ではチング(親旧)と言い、朝鮮語ではトンム(同務)と言う。

 冷麺を韓国でネンミョン、北朝鮮でレンミョンと言うのは、同じ単語でも表記・発音が異なる代表的な例である。

1948年に頭音法則を廃止した北朝鮮

 古い時代の朝鮮語には、R音(日本語のラ行)で始まる言葉がなかったそうだ。しかし、中国から入ってきた漢字には、R音で始まるものが少なくない。

 朝鮮半島の人々は、漢字を受け入れるに際して、語中に出てくるR音は、そのまま発音するが、R音が語頭に来る時はN音に変えたり、無音化したりして朝鮮語(韓国語)の中に取り入れた。

 このようにR音で始まる漢字音が語中と語頭で異なる現象を韓国では「頭音法則」と言う。

 しかし、北朝鮮では、この頭音法則を1948年に廃止した。その決定を主導したのが、北朝鮮の言語学者、金壽卿である。

東京帝国大学大学院へも進学し17言語を身につけた金壽卿

 金壽卿は、1918年に朝鮮半島北部、通川に生まれた。幼少時から優秀で、植民地期の最高学府である京城帝国大学に入学。そこで、哲学、言語学を学び、1940年には渡日して東京帝国大学大学院に進学した。

 朝鮮半島と日本で、小林英夫、小倉進平などの高名な学者に師事。小林英夫は、ソシュールの『一般言語学講義』を世界に先駆けて外国語訳したことで知られる言語学者であり、小倉進平は朝鮮語学の権威だった。

 金壽卿の優秀さは、指導教授たちが舌を巻くほどだった。大学院を終えた時、日本語、中国語、英語、フランス語、ロシア語はもちろん、ギリシャ語、ラテン語、漢文などの古典語を含む17言語を身につけていたという。語学の天才である。

金日成総合大学の教員となるため北朝鮮へ

金日成総合大学の教員となるため北朝鮮へ

金日成総合大学 出典 David Stanley [Public domain], via Wikimedia Commons

 戦争が激しくなった1944年、金壽卿は学徒動員を逃れるために再び京城(今のソウル)に戻る。そこで迎えた日本の敗戦と解放は、金壽卿にとって大きな転機となった。

 本来ならば、京城帝国大学が再編された国立ソウル大学教授におさまるのが自然な成り行きであった。

 しかし、金壽卿は、1946年に新設された金日成総合大学から文学部の教員として招聘され、妻と2人の子供を連れて北朝鮮に行く道を選んだ。

 金壽卿は、ろくに本もない中で、金日成総合大学での研究を始めるしかなかった。

1948年「朝鮮語新綴字法」で冷麺はレンミョン、労働党はロドンタンに

 「朝鮮語の革命」という至上命題のためにそれまで蓄積してきた朝鮮語学史の知識と、小林英夫から学んだヨーロッパの言語思想、さらには、ソ連の当時最新の言語学の知見を総動員して、1948年にまとめたのが「朝鮮語新綴字法」だった。

 これは植民地期に策定された「ハングル正書法統一案」を批判的に検討したもので、1.縦書きから横書きに変更する。2.将来、漢字を全廃する。3.頭音法則を廃止する。などその後の北朝鮮の朝鮮語を特徴づける重要な変更が打ち出されていた。

 上記3番目の頭音法則の廃止によって、冷麺はレンミョンになり、北朝鮮の指導政党である労働党(ノドンタン)はロドンタンになったのである。

 なお、朝鮮語では漢字を使わないが、あえて漢字で書けば旧字体で「勞動黨」となる。「働」は日本で作られた国字なので使われない。

朝鮮戦争で離散家族。休戦後も権力闘争に翻弄

 1950年に朝鮮戦争が勃発すると、金壽卿とその家族の運命は暗転する。金壽卿は、南下する北朝鮮軍に従軍し、最南端の珍島に到ったところで戦況は一変。命からがら平壌に逃げ帰る。

 ところが、平壌に家族はいなかった。混乱の中、家族は南に行く選択をしたのである。こうして、金壽卿一家は離散家族となった。

 休戦後も、金壽卿は北朝鮮の権力闘争に翻弄された。

 1950年代後半から60年代は、金日成主席がソ連から距離を置き、主体思想を確立していく時期に当たる。その過程で延安系(中国で抗日闘争をしていたグループ)、ソ連系(ソ連軍と行動をともにしていたグループ)の政治指導者は、次々と粛清されていった。

 金壽卿もまた、外国思想にかぶれた学者として批判を受ける。

 辛くも粛清は免れたが、1968年、金壽卿は金日成総合大学を追われ中央図書館の司書に左遷される。その後、20年間、金壽卿は学界から姿を消すことになる。

 学問の世界に生きる学者が、政治権力の影響を大きく被ってしまうところが、北朝鮮社会の特異な点である。

20世紀の朝鮮半島史を俯瞰できる壮大な評伝

 韓国からカナダに移民していた家族が、北朝鮮の父の消息を知ったのは1983年のことである。

 手紙のやり取りを経て、1988年、金壽卿は次女の恵英(ヘヨン)と北京で劇的な再会を果たす。同じ時期、金壽卿は学者としても復権され、研究活動の再開が認めれた。

 金日成主席死後の1996年、後継者の金正日総書記によって「愛国烈士」に認められ、2000年に平壌で81歳で没した。

 北に渡った言語学者の著者、板垣竜太教授は、2010年にたまたま金壽卿の次女恵英に出会い、この天才的な言語学者の存在を知った。

 その後、恵英女史から金壽卿の日記を提供してもらうとともに、精力的な取材を続けて、渾身の評伝を完成した。

 本書は、1言語学者の評伝というにとどまらず、朝鮮語の学問史、朝鮮戦争史、離散家族史、さらに朝鮮半島の20世紀史にもなっている

 朝鮮半島に関心のある人々にぜひ一読をお勧めしたい。

犬鍋 浩(いぬなべ ひろし)
1961年東京生まれ。1996年~2007年、韓国ソウルに居住。帰国後も市井のコリアンウォッチャーとして自身のブログで発信を続けている。
犬鍋のヨロマル漫談

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