1976年モントリオール大会で梁正模が金メダル獲得

1976年モントリオール大会で梁正模が金メダル獲得

梁正模 出典 대한민국정부 [Public domain], via Wikimedia Commons

1976年モントリオール大会で梁正模が金メダル獲得

 1948年8月15日、大韓民国樹立が宣言された。その年の7月29日に開催されたオリンピック・ロンドン大会には、すでに「大韓民国」の国名で選手を派遣し、ボクシングとウェイトリフティングで銅メダルを獲得している。この後のオリンピックでも格闘技を中心に、毎回2~3個の銅メダルや銀メダルを得てきた。

 その後、漢江の奇跡と呼ばれた経済発展を遂げた70年代、韓国のスポーツ界も急成長。1976年のモントリオール大会のメダル獲得数は6個に増え、レスリングのフリースタイル62キロ・グラムに出場した梁正模が、ついに念願の金メダルを奪取。表彰式で流れる国歌を聞いて、多くの韓国民は感動の涙を流したという。

 しかし、これを「韓国初の金メダル」と他国から言われることについては…納得できない、複雑な気分になる者は多いようだ。

日の丸のユニフォームで金を獲った孫基禎

 モントリオール大会の梁正模が「韓国」としては初の金メダリストであることは間違いない。が、朝鮮民族としては、その40年前すでに金メダルを獲得した人物がいる。 

 1936年ベルリン大会で日本選手団が獲得した6個の金メダルのうち、マラソン競技で金メダルを獲得した孫基禎は朝鮮半島出身者である。しかし、当時の国籍は日本。当然、日本人選手として日の丸の国旗が描かれたユニフォームを着てオリンピックに出場している。それが韓国民にとっては口惜しい。

 孫基禎の出身地は、鴨緑江に近い平安北道新義州府。現在は中国と国境を接する北朝鮮の新義州特別市となっている。孫が生まれた前年である1911年には、朝鮮半島と満州(中国大陸)を結ぶ鴨緑江橋梁(現 断橋)が完成し鉄道が開通した年だった。

東亜日報掲載写真の日の丸を塗り潰す

東亜日報掲載写真の日の丸を塗り潰す

ベルリン大会で金メダルに輝いた孫基禎(左) 出典 不明 [Public domain], via Wikimedia Commons

東亜日報掲載写真の日の丸を塗り潰す

 京城(現在のソウル)の高等普通学校(日本内地の旧制中学校に相当)で陸上部に所属して活躍し、ベルリンオリンピックの前年に開催された明治神宮体育大会のマラソン競技で、世界最高記録2時間26分42秒の優勝。金メダルの最有力候補として注目されるようになる。

 結果、ベルリンオリンピックでも、期待通りの活躍を見せている。孫基禎の金メダル獲得は日本内地や朝鮮半島でも大々的に報道され、世間はその快挙に沸き返った。

 しかし、当時も朝鮮人の間では、彼が「日本人選手」として扱われることに納得のいかない人は多かったようである。朝鮮半島で発行されていた東亜日報に掲載された表彰式の写真は、ユニフォームの胸にある日の丸が塗り潰されていた。これを反国家的行為と見てとった朝鮮総督府は、新聞の発行停止という厳しい措置も行っている。

韓国市民団体がJOCに訂正を求めて抗議

 独立後、孫基禎はオリンピック韓国選手団総監督、大韓陸上連盟会長などを歴任し、韓国のスポーツ発展に尽力した。民族の英雄だけにマスコミへの露出度も高く、テレビや雑誌の取材を受けることも多い。彼自身もベルリンオリンピックで日の丸のユニフォームを着せられたのは、屈辱と感じていたようだ。韓国の国民感情も同様。この件に関しては鬱屈(うっくつ)した思いを抱え続けている。

 日本オリンピック委員会(JOC)のウェブサイトには、過去のオリンピックに出場した日本選手団の記録を検索することができる。その中には、ベルリンオリンピックのマラソン競技で金メダルを獲得した孫基禎の名もあるのだが…、韓国市民団体VANKは、日本人であるかのように表示してあることに抗議して訂正を求めているという。

青山 誠(あおやま まこと)
日本や近隣アジアの近代・現代史が得意分野。著書に『浪花千栄子』(角川文庫)、『太平洋戦争の収支決算報告』(彩図社)、『江戸三〇〇藩城下町をゆく』(双葉社新書)などがある。

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