明治以降も金を掘っていた佐渡金山

明治以降も金を掘っていた佐渡金山

戦前には東洋一と謳われた佐渡の北沢浮遊選鉱場

 新潟県などが中心となって、佐渡島の金山をユネスコの世界文化遺産登録を申請しようという動きがある。

 これに、韓国メディアがかみついてきた。

 『戦時中に朝鮮人徴用工が過酷な強制労働をさせられた場所を「文化」などとするのはけしからん』というわけだ。韓国政府もこれに同調しているという。

 なにやら、長崎県の軍艦島が、世界遺産に登録された時の騒動を彷彿(ほうふつ)とさせる。

 しかし、佐渡金山と聞けば、我々日本人には「江戸時代」のイメージ。

 江戸幕府の経済を支えた世界屈指の大金山だが、明治維新の頃には、すっかり金脈を掘り尽くしていたはず…と、思ったのだが、調べてみると、実は、1989年まで金を掘っていたようだ。

「三菱」という言葉に脊髄反射する韓国

 江戸時代後期には、採掘量が激減し、掘り尽くした感があった佐渡の金山。だが、維新後に欧米から近代的な採掘機器が導入され、それまで採掘不可能だった場所からも金が採れるようになり復活。

 1896年には、民間の三菱合資会社に払い下げられ、大正時代になると三菱鉱業株式会社(現在の三菱マテリアル)に引き継がれ戦後も長らく事業が継続されていた。

 ここで「三菱」というキーワードまで登場してきた。こうなると、韓国としては、黙ってはいられない。

 なにしろ憎むべき“戦犯企業”の筆頭だ。

 韓国政府が公表する「戦犯企業リスト」にも三菱系企業がずらりと並ぶ。もちろん、佐渡金山を運営していた三菱マテリアルも。

 佐渡は、金だけではなく銀、銅も産出した。いずれも貴重な戦略物資なだけに日中戦争後は、増産体制に入り事業は拡大。

 太平洋戦争開戦後の1943年にも金709キロ・グラム、銅867トンが採掘されている。当然のこと大勢の坑夫が必要になる。そこに朝鮮人徴用工がいた。

 佐渡鉱山所では、1940年2月から1942年3月までに、1005人の朝鮮人労働者を募集によって集めたという記録が残っている。

 まだ、朝鮮半島での戦時徴用は始まっていなかったが、韓国では、この募集にも“強制があった”という意見が大多数。このため、募集工も「徴用工」に含めて語られることが多い

緩すぎる監視体制。脱走は日常茶飯事

 佐渡の鉱山に送り込まれた1005人の朝鮮人労働者のことをもう少し詳しく調べてみよう。

 彼らのうち10人は、事故や病気などの理由で死亡して故郷に帰還できなかった。しかし、鉱山労働は、危険な仕事。そこでの死亡率0.9%は、当時の日本人の鉱山労働者と比較してもけして高い数字ではない。

 また、問題を起こして不良送還となった者25人、逃走した者148人とある。

 強制労働させられている者が、不良行為をとがめられて強制送還されるってことあるのか。

 また、これだけの人数が脱出するって…。強制的に人を縛りつけて働かせるような現場では、まずありえない。それなり厳しい監視体制が敷かれているはずだから。

 14~15%もの労働者が逃亡できたのは、監視がかなり緩いか、なきに等しい状況だったことが推察できる。

 ましてや佐渡は孤島。港の船着き場さえ見張っていれば、脱走を防ぐことは簡単だ。去る者を追う気もなかったのではないか。

150円~200円=日本人大卒並の高級待遇

 九州の炭鉱に現存する徴用工の給与明細を見れば、月額150~200円と、日本人の大卒エリートサラリーマン並の高給優遇。佐渡でも同等の給与水準だったという。

 仕事の辛さから逃げる者が続出しても、募集をかければ、人が集まってくるのだろう。監視するのは手間だし、嫌な者を無理矢理に働かせる必要もないということ。

 佐渡金山に朝鮮人の募集工や徴用工がいたことは、間違いないことだろう。けど、それが世界遺産登録を阻む理由にはならない。

青山 誠(あおやま まこと)
日本や近隣アジアの近代・現代史が得意分野。著書に『浪花千栄子』(角川文庫)、『太平洋戦争の収支決算報告』(彩図社)、『江戸三〇〇藩城下町をゆく』(双葉社新書)、近著『日韓併合の収支決算報告~〝投資と回収〟から見た「植民地・朝鮮」~』(彩図社、2021年)。

記事に関連のあるキーワード

おすすめの記事

こんな記事も読まれています

One Comment

  1. 「14~15%もの労働者が逃亡できたのは、監視がかなり緩いか、なきに等しい状況だったことが推察できる。」
    とありますが、それだけの逃亡者が出たことに関してはどうお考えでしょう。

コメント・感想

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA