龍井中心部から東南3kmにある尹東柱の墓地

龍井中心部から東南3kmにある尹東柱の墓地

尹東柱のお墓がある龍井郊外の墓地(著者撮影)

尹東柱「忘れられた詩人」から「中国朝鮮族愛国詩人」へ(1/2)の続き。

 実弟の尹一柱自身は、1946年に単身で韓国へ「越南」(韓国へ渡ること)。ソウル大学建築学科に入学した。兄の尹東柱と同じように、才能あふれる人物だったようで、海軍で軍務についたのちに詩人、建築学者として活躍した。尹一柱は、大村益夫教授に尹東柱のお墓の場所を伝えた数か月後の1985年11月、亡くなった。大村教授に会って、直接話を聞くことは、叶わなかったそうだ。

 私は、2006年の夏に一度だけだが、龍井の中心部から3キロ・メートル余り東南にある尹東柱のお墓を訪ねたことがある。タクシーで向かったが、うねうねとした丘陵の道はひどく揺れ、座席から体が飛び跳ねないよう、吊革を固く握り締めていなければならなかった。緑の丘には、こんもりとした土饅頭式のお墓が、点在しており、少し迷ったものの、南斜面を少し下った辺りに、立派な墓碑を見つけることができた。区画整理された日本のお墓とは違う、野趣あふれる、夏草のしげる広々とした墓地を眺めながら、大村教授らが尹東柱のお墓を探し出すのは、さぞ大変だったろうと想像した。

韓国の民間団体支援で生家を復元

韓国の民間団体支援で生家を復元

明東村にある復元された尹東柱の生家(著者撮影)

 一方、尹東柱の生家は、龍井から中朝国境の街・三合へ向かう途中の明東村にある。三合の対岸は、咸鏡北道の大都市、会寧だ。金日成の妻、金正淑の故郷として知られ、金正淑同志革命事跡館などが整備されている。尹東柱の遺骨を抱いた父が、会寧駅ではなく、上三峰駅に降り立ったのは、そのころには、すでに龍井に移り住んでいたためだろう。また、開山屯から龍井までは、軽便鉄道が利用できた。

 生家は1982年に解体され、近隣の民家を建築するのに廃材が利用された。その後、中韓交流が盛んになるなか、1993年に龍井政府より観光名所として指定を受け、1994年に韓国の民間団体「海外韓民族研究所」の協力のもとで復元された。さらに、周囲の整備も進み、韓国人が批判している入口の標石「中国朝鮮族愛国詩人」は比較的新しく、2012年に建立されている

 ただ、尹東柱ゆかりの地の整備は、はじめから順調に進んだわけではない。尹東柱の故郷を訪れる韓国人らを、中国は警戒の目で見ていた。1993年、大成中学校における尹東柱詩碑の除幕式は政府の反対で執り行われなず、94年には「尹東柱生家址」碑を強制撤去。95年、延世大学の総長一行が尹東柱墓前で追悼式を開いた際には、その様子を撮影したビデオを没収されるなどしている。

 生家を復元した韓国の海外韓民族研究所は1989年に設立。「韓半島(朝鮮半島)と延辺、沿海州を連結する韓民族共同体」(発起主旨文から)を目指している。朝鮮族の多く暮らす延辺では、尹東柱詩碑や明東学校を設立した金躍淵先生碑を建立し、大成中学校を復元した。また、黒龍江省ハルビンでは、安重根銅像と記念館の建設を推進していた。

政治的判断優先の中国と国民感情優先の韓国で繰り返される葛藤

政治的判断優先の中国と国民感情優先の韓国で繰り返される葛藤

龍井中学校内に復元された大成中学校

 共産党の正統性確保を至上命題に、外国からの影響を極力排除したい中国と、自分たちの歴史につながりの深い場所を整備、記念碑を建てるなど聖域化したい韓国との葛藤は、中韓交流初期からたびたび繰り返されており、何はともあれ、中韓両国からラブコールを送られている尹東柱は、稀有(けう)な存在といえる。

 葛藤の例を挙げれば、2006年に、韓国人実業家らがハルビンの中央大街広場公園に建立した安重根銅像は、中国政府の指示で即座に撤去。最近では、韓国人が延辺朝鮮族自治州の和龍市に建立した「青山里大捷紀念塔」から建立趣旨文「朝鮮人民の独立運動」が削られるなどしている。

 中国の新聞「環球時報」は、尹東柱の国籍を巡って、「両国の専門家の考証と分析が必要」と指摘しているが、常に政治的判断と有用性を優先させてきたのが中国自身。また、何よりも国民感情を優先する韓国が相手となれば、専門家の考証と分析で、両国が納得する可能性はかなり低いと言えそうだ。


街の空気を感じさせる龍井市中心部360°写真

熱川 逸(フリーライター)

記事に関連のあるキーワード

おすすめの記事

こんな記事も読まれています

コメント・感想

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA